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福岡地方裁判所 平成2年(ワ)2216号 判決

原告

前田ユキヨ

前田武志

松永美紀子

前田弓子

原告ら訴訟代理人弁護士

山下昇

出田清志

原告ら訴訟復代理人弁護士

用澤義則

被告

山田博

被告訴訟代理人弁護士

有岡利夫

中山茂宣

杉田邦彦

主文

一  被告は、原告前田ユキヨに対して、金九六〇万円、同前田武志、同松永美紀子、同前田弓子に対して各金三二〇万円をそれぞれ支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを四分し、その一を原告らの、その余を被告の各負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告らの請求

被告は、原告前田ユキヨに対して金一二七五万円、同前田武志、同松永美紀子、同前田弓子に対して各金四二五万円をそれぞれ支払え。

第二  事案の概要

本件は、歯科医師である被告が亡前田勘之助(以下「勘之助」という。)に実施した抜歯治療に際して行った局部麻酔注射又は鎮痛抗炎症剤などの投薬により勘之助が死亡するに至ったとして、勘之助の相続人である原告らが被告に対して不法行為に基づく損害賠償金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告前田ユキヨ(以下「原告ユキョ」という。)は勘之助の妻、同前田武志、同松永美紀子、同前田弓子はいずれも勘之助の子であり、被告は、福岡市早良区四箇田団地五―一〇一号の山田歯科医院(以下「被告医院」という。)において歯科医療業務を行う歯科医師である。

2  被告は、平成二年三月二三日、被告医院において、勘之助に対してキシロステシンによる局部麻酔をした上で抜歯治療を実施し、ロキソニン(鎮痛抗炎症剤)、レクトーゼ(消炎酵素剤)、ケフレックス(抗生物質)を投与した。その後、被告は、原告ユキヨから、徒歩で帰宅した勘之助の様子がおかしいので福岡歯科大学病院の医師に往診を依頼してほしい旨の電話を受け、被告医院に隣接する「せんだ内科クリニック」の千田昭医師(以下「千田医師」という。)に原告ユキョ方への往診を依頼した。そこで、原告ユキヨ方を訪れた千田医師は、直ちに勘之助に対して心臓マッサージを行ったが、同日午後五時三〇分ころ、勘之助は死亡した。なお、千田医師作成の勘之助の死体検案書には、直接死因は窒息死、その原因は喘息による発作と記載されている。

3  ロキソニンの使用説明書には、使用上の注意として、アスピリン喘息又はその既往歴のある患者には禁忌、気管支喘息のある患者には慎重投与との記載があり、勘之助には喘息の既往症があった。

二  争点

1  勘之助に対する局所麻酔注射又は投薬における被告の注意義務違反の有無

(原告らの主張)

(一) 被告は、前記抜歯治療に際し、予診録等により、勘之助には二〇年来の持病である喘息のためしばしば入退院を繰り返していた既往歴があることや勘之助が薬物に過敏な反応を示すことを知っていたのであるから、勘之助に対してキシロステシンの局部麻酔注射及びロキソニン、レクトーゼ、ケフレックスの投薬を行うに際しては、皮内反応テスト等十分な事前調査をなすべき注意義務を有していたにもかかわらず、被告はピリン系の薬物さえ投与しなければ良いと軽信し、漫然と右局部麻酔注射及び投薬を実施したために勘之助にアナフィラキシーショックを惹起させ、その結果勘之助を死亡するに至らせた。

(二) 成人の気管支喘息患者のうち約一〇パーセントを占めるアスピリン喘息患者に対してロキソニンの使用は致命的であり、前記ロキソニンの使用説明書に記載されている内容からすると、被告は、勘之助から前記のとおり喘息の既往症があることを知った時点で、勘之助の喘息がアスピリン喘息ではないかとの疑いを持って、アスピリン喘息患者である勘之助に禁忌とされているロキソニンの投与を回避すべき注意義務を有していたにもかかわらず、勘之助がアスピリン喘息であるかどうかについて何ら疑わず、漫然とロキソニンを投与したために勘之助にアスピリン喘息発作を惹起させ、その結果、勘之助を死亡するに至らせた。

(被告の主張)

勘之助は、主治医である梶山亨医師(以下「梶山医師」という。)から継続的に喘息の治療を受けていたものであるところ、同医師作成にかかる診療録によれば、勘之助は「気管支喘息」と診断されていること、アスピリン喘息であればなされていたはずのアスピリン(サリチル酸系薬剤)に対する減感作療法が試みられた形跡は認められないこと、平成元年四月二〇日に大後頭神経痛等の診断で梶山医師から入院治療を受けた際、ロキソニン六〇ミリグラム錠剤を一日三回一錠ずつ二日間にわたって服用していると認められるのに対し、これによって重篤な症状が生じたとは認められないことなどから、勘之助は、アスピリン喘息には罹患してはいなかったものであり、勘之助の死亡原因は、アナフィラキシーショック又はアスピリン喘息によるものではない。

2  勘之助の窒息後における被告の注意義務違反の有無

(原告らの主張)

被告は、勘之助が失神した時点で速やかに気道確保等の適切な処置を施せば勘之助の窒息死は回避できたのであるから、原告ユキヨから電話を受けた時点で、勘之助に対して気道確保等の適切な処置を施す注意義務があったにもかかわらず、漫然と千田医師に対して原告ユキヨ方への往診を依頼したのみで、勘之助を発症後一時間近く放置し、その結果勘之助を死亡するに至らせた。

3  原告らの損害

(一) 慰謝料

被告の本件抜歯における前記注意義務違反により死亡するに至った勘之助の慰謝料としては二四〇〇万円が相当であるから、それぞれ原告らの相続分に応じて、勘之助の妻である原告ユキヨは一二〇〇万円を、他の原告らは各四〇〇万円を相続した。

(二) 葬儀費及び墓碑建立費

勘之助本件死亡よる葬儀費及び墓碑建立費としては一五〇万円を要したものであるところ、原告ユキヨは七五万円、他の原告らは各二五万円の葬儀費及び墓碑建立費の出捐を被った。

第三  当裁判所の判断

一  勘之助の死亡に至る経緯について

前記争いのない事実及び証拠(甲第二ないし第四号証、第六号証、乙第四ないし第六号証、証人梶山亨、同千田昭の各証言及び原告前田ユキヨ、被告各本人尋問の結果)によれば、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

1  平成二年三月二三日午後二時半ころ、虫歯の治療を受けるために被告医院を訪れた勘之助は、被告の診断を受ける前に被告医院に備え置かれてあった福岡県歯科医師会制定の予診録(甲第四号証)への記入を求められ、「あなたの体質は」の項については「特異体質 ぜんそく」に、「使えない薬は」の項については「ピリン系薬剤」に各々丸印をつけ、さらに「今までにかかった病気は」の項については「ぜんそく」と自ら記入した。右予診録を見た被告は、勘之助に対して喘息の状態を問診したところ、勘之助は、自分には喘息の持病があり、ピリン系の薬剤で喘息の発作が起こる旨答えた。その後、被告は、勘之助の歯を診察した結果、左上八番を抜歯するのが相当と診断し、抜歯治療に先立って、上顎八番部の頬側及び舌側に麻酔剤キシロステシンの局部麻酔注射をするとともに、化膿止めのためにケフレックスを、また麻酔が切れたときに痛みが少なくなるようにするためにロキソニンをそれぞれ投与したが、その当時、アスピリン喘息の概念、ロキソニンがアスピリン喘息を惹起すること及びロキソニンをアスピリン喘息又はその既往歴のある患者に投与してはいけないことについては全く知らなかった。そして、右抜歯治療後、被告は、ケフレックス、ロキソニン、レフトーゼを処方し、勘之助は、これらの薬剤を持ち帰った。

2  勘之助は、被告医院より帰宅後、しばらくはテレビを見ていたが、同日午後三時三〇分ころ、喘息の発作を起こし始めたので、発作を鎮静させるための吸入を二回行ったが発作はおさまらず、顔色が赤黒くなり始め、下腹部を両手で押さえながらトイレに駆け込み、しばらくして同所で意識を失い、「ドン」という音とともに転倒した。そこで、原告ユキヨは、勘之助の喘息についての主治医である梶山医師に対して、これからすぐに勘之助を連れて行くので診察してくれるように求めたところ、梶山医師から緊急を要するので福岡歯科大学病院の医師の往診を被告に依頼するようにとの指示を受けたので、被告に電話した。

3  原告ユキヨから電話を受けた被告は、右大学病院に対して直ちに医師の往診を依頼することは困難であり、時間も要すると考え、呼吸器科の専門である千田医師に勘之助方への往診を依頼し、同日午後四時五〇分ころ、被告の右依頼に応じた千田医師が勘之助方へ到着したところ、勘之助は、トイレでうつ伏せで倒れており、顔面はチアノーゼ状態で心臓は停止していた。そこで、千田医師は、勘之助に対して心臓マッサージなどを行ったところ、勘之助の鼻から食物が出てきたものの心臓は鼓動せず、同日午後五時三〇分、心臓マッサージを中止して死亡と判断した。

なお、千田医師は、勘之助の死体検案書(甲第二号証)に、その直接死因は窒息死、その原因は喘息発作である旨記載した。

二  勘之助の死因について

1  まず、アスピリン喘息及びロキソニンについて、前記争いのない事実及び証拠(甲第七ないし第一二号証、第一五、第一七、第一八号証、乙第七号証、証人木原廣美の証言)によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。すなわち、

(一) アスピリン喘息は、すべての酸性解熱鎮痛薬(酸性非ステロイド性抗炎症薬)によって発作が誘発される喘息であり、成人の気管支喘息の約一〇ないし一五パーセントを占めており、その特徴としては、①重症難治例が多く、しばしばステロイド依存性である、②発作が通年性に認められ、意識障害を伴うほどの大発作を経験している症例が多い、③慢性副鼻腔炎、鼻茸の合併例が多い、④中年になってから発症することが多く三〇歳代に喘息発症のピークがある、⑤非アトピー性であり、血清総IgEは低値、一般アレルゲンに対する皮膚反応はカンジダなどの真菌類を除いて陰性、血清中の各種抗原特異的IgEは陰性、小児喘息などのアレルギー疾患の既往症はまれであり、アレルギー疾患の家族歴も少ないなどが挙げられている。また、アスピリン喘息による発作はしばしば意識障害を伴うほどの大発作になり、多くの場合は人工呼吸器の装着まで必要とする。アスピリン喘息は、昭和五五年ころから呼吸器やアレルギー疾患の専門医の間で注目されるようになり、昭和歯学会雑誌第六巻二号(昭和六一年九月発行)には既にアスピリン喘息患者の歯科治療経験として、アスピリン喘息がアスピリンのみならず、その他の鎮痛薬でも喘息発作が誘発される特殊な喘息であり、消炎鎮痛剤の慎重な投与が必要である旨の記載がある。さらに、平成二年三月発行の「歯科医の知っておきたい医学常識一〇三選」には、気管支喘息患者の歯科治療時の注意として、アスピリンやインダシタンなどの非ステロイド系消炎剤の投与は症状を悪化させることがあるので避けた方がよい旨の、また、平成四年一一月発行の「続・歯科医の知っておきたい医学常識九五選」には、アスピリン喘息患者の臨床像の特徴や同患者の歯科治療時の注意として、ロキソニン等の酸性鎮痛消炎剤はすべて発作を誘発する可能性があると考えるべきであり、非酸性の鎮痛剤あるいは消炎剤を選択すべきである旨の記載がある。

(二) ロキソニン(ロキソプロフェンナトリウム)は、昭和六一年ころ、三共株式会社から販売され始めたフェニルピロピオン酸系・非ステロイド性の鎮痛・抗炎症剤であり、慢性関節リウマチ、変形性関節症などの患者や手術、抜歯後などの鎮痛、消炎に広く使用されて来ており、消化管から吸収されたのち肝臓で活性代謝物に変換されて作用するので、経口投与から約五〇分経過後以降にその薬理作用が強くあらわれる。昭和六一年六月同会社改訂のロキソニンの使用説明書(甲第一〇号証)には、既に使用上の注意として、アスピリン喘息又はその既往歴のある患者には投与しないこと、気管支喘息のある患者には慎重に投与することが、さらには、文献請求先として同会社医薬情報部がそれぞれ記載されていた(なお、平成四年三月改訂の使用説明書には、アスピリン喘息に非ステロイド性消炎鎮痛剤等による喘息発作の誘発との説明が追加されている。)。

以上の事実が認められる。

2(一)  次に、勘之助の病歴について、前記争いのない事実及び証拠(乙第一、第二号証、証人梶山亨の証言及び原告前田ユキヨ本人尋問の結果)によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。すなわち、

勘之助は、三六歳ころになって初めて喘息発作を起こして入院したのを皮切りに、以後、通年性の喘息患者となって年に二回くらいは喘息の発作で入院し、意識障害を伴うほどの喘息発作も過去に少なくとも一〇回くらいは起こしており、ケナコルテAというステロイドの筋肉注射を年間四、五回は受けていた。また、勘之助には、ピリン系の薬剤を舐めたときや注射を受けたときには薬剤アレルギーがあったので、梶山医師は、鎮痛解熱剤としてキョーリンAP2のみを投与していた。勘之助は、亡くなる三、四年ぐらい前からは鼻が詰まったような感じがするために鼻をクンクンといわせることがあり、風邪をひいていないときでも鼻水を出したりすることがあった。勘之助の兄弟や子供らの中にアレルギー疾患の者はなく、勘之助自身アトピー性症状は認められなかった。

以上の事実が認められる。

(二)  ところで、勘之助の国民健康診療録(乙第一号証)によれば、勘之助は、平成元年四月二〇日、梶山医師より大後頭神経痛の診断を受けて同日入院しているが、その際、右診療録の処方手術処置等欄には「ロキソニン3T 2日分」の、また、診療の点数等の欄には「15×1」の記載がそれぞれあることが認められる。しかしながら、梶山医師自身、右処方手術処置等欄の記載は、一旦は処方を考えたロキソニンを勘之助の薬剤アレルギーに配慮して取り消した後これを抹消するのを忘れたためであり、診療の点数等欄の記載は事務員によって間違って記載されたにすぎず、勘之助に対しては事故等を予防するためにこれまでキョーリンAP2、ハイスタミン、オペック、オーネスP、ガストロフィリンAという薬剤しか使用してこなかった旨証言するところ、証拠(乙第一、第二号証、証人梶山亨の証言)によれば、右診療録のその他の処方手術処置等欄には、右薬剤の記載はあるもののロキソニンの記載は見当たらないこと、梶山医師は、右処方手術処置等欄に薬剤の処方を記載するだけで、診療の点数等欄の記載は事務員が右処方手術処置等欄の記載内容を見て記載していたこと、梶山医師は、三〇年来勘之助の喘息治療に当たって来ており、その間、勘之助には薬剤アレルギーがあることに気を遣っていたことが認められるので、梶山医師の右証言内容は信用することができるというべきである。したがって、平成元年四月二〇日、勘之助が、梶山医師の処方によりロキソニンを服用したことは認められないので、右服用を前提としてロキソニンと勘之助の死亡との因果関係を否定することは許されないことになる。

3  以上前記認定の勘之助の死亡に至る経緯、アスピリン喘息の特徴、ロキソニンの薬理作用と使用説明書などの文献の記載内容、勘之助の喘息の病歴、勘之助にはこれまでロキソニンの服用歴が認められないことに証拠(証人木原廣美の証言)を総合して判断すると、勘之助は、被告から抜歯治療を受けた当時、アスピリン喘息に罹患していたが、被告が投与したロキソニンによって右アスピリン喘息が誘発されて激しい発作が生じ、気管支が狭窄状態となり、遂には窒息死するに至ったものと認められるのが相当であり、他にこれを覆するに足りる証拠はない。

三  ロキソニン投与における被告の注意義務違反の有無について

1  前記認定したところによれば、被告は、喘息にはアスピリン喘息があることを本件事故当時知らなかったがために、予診録及び問診により勘之助には喘息の既往歴があることを知っていたにもかかわらず、アスピリン喘息又はその既往歴のある患者に対する使用は禁忌であるロキソニンを鎮痛・抗炎症剤として勘之助に投与した結果、勘之助を死亡するに至らせたものと認めるのが相当である。

2  ところで、そもそも、医師が患者に対して薬剤を投与しようとする場合には、薬剤は、一方では特定の疾病ないし病状に対しては有効であるものの、他方では副作用等身体に悪影響を及ぼす危険性を常に有するものであるのだから、医師としては、その業務の特殊性からして、まず、予め当該薬剤に関する知識を当時の最先端に及ぶ範囲のものまで、薬剤に添付されている使用説明書にとどまらず他の医学文献等あらゆる手段を駆使して修得しておかなければならないといういわゆる研鑽義務を負っていることはいうまでもないばかりでなく、現実に薬剤を投与するにあたっては、右研鑽により修得した知識に基づき、患者が当該薬剤の投与が禁忌とされている者に該当するか否かに関する事項を患者等から詳細に聞き出さなければならないという問診義務をも負っているものといわなければならず、さらには、そのうえで、右問診で得られた患者の病状などの問診結果やその他の各種検査から得られた検査結果から患者にとって当該薬剤が禁忌でないことを確定的に判断できない以上は右薬剤を投与してはならないという投与における注意義務を負っているものと解するのが相当である。なるほど、右医師に課せられる義務のうち、研鑽義務については、医療の高度化に伴って医師が極度に専門化しているがために、薬剤の知識について医学の全専門分野でその最先端の知識を修得することが容易なことではなくなっていることは想像に難くないが、いやしくも人の生命及び健康を管理するという医師の業務の特殊性と薬剤が人体に与える副作用等の危険性に鑑みれば、右のような医師の専門化を理由として前記のような研鑽義務が軽減されることはないというべきである。

3 これを本件についてみると、前記認定のとおり、三共株式会社が作成して昭和六一年六月に改訂したロキソニンの使用説明書(甲第一〇号証)には、既にロキソニンは酸系・非ステロイド性の薬剤であり、使用上の注意としてアスピリン喘息又はその既往歴のある患者には投与しないこと及び気管支喘息のある患者には慎重に投与することが記載されており、文献請求先として同会社医薬情報部の記載もあったこと、昭和六一年九月発行の歯学会雑誌にアスピリン喘息患者の歯科治療経験が掲載されたほか、平成二年三月発行の「歯科医の知っておきたい医学常識一〇三選」には気管支喘息患者の歯科治療時の注意などが、また、平成四年一一月発行の「続・歯科医の知っておきたい医学常識九五選」にはアスピリン喘息患者の歯科治療時の注意などがそれぞれ掲載されていることからすると、本件事故当時、被告は、ロキソニンを投与するにあたり、その禁忌症であるアスピリン喘息に関する知識の修得に努めなければならないという歯科医師としての研鑽義務を負っていたものというべきであり、それにもかかわらず、前記認定のとおり被告はアスピリン喘息の概念やアスピリン喘息とロキソニンの関係につき何ら知らなかったのであるから、右研鑽義務を尽くしたものとは到底いえず、この点において既に被告のロキソニン投与には過失が認められることになる。なお、証拠(中野恕行、冨岡徳也の各証言、被告本人尋問の結果)によれば、本件事故当時、少なくとも福岡市内の開業歯科医師の間では、アスピリン喘息についての知識が一般的に定着するに至っていたとまでは必ずしもいえないこと、問診の際に喘息と答える患者はいるもののアスピリン喘息と自ら答える患者は見受けられなかったこともまた認められるところである。しかし、前記認定のとおり、アスピリン喘息は、呼吸器やアレルギー疾患の専門医の間では既に昭和五五年ころから注目されるようになっていたものであり、また、本件事故当時、ロキソニンの使用説明書や医学文献にアスピリン喘息についての記載があったことからすると、歯科医師であっても、アスピリン喘息に関する知識を修得することは容易であったと認めざるをえないばかりでなく、前記医師の業務の特殊性及び薬剤が人体に与える副作用等の危険性に鑑みれば、右認定のアスピリン喘息に関する知識が福岡市内の開業歯科医師の間では一般的に定着するに至っていたとはいえないなどの事情は被告に課せられていた研鑽義務を何ら軽減するものではないことは明らかである。

次に、被告は、前記認定のとおり予診録及び問診によって勘之助が喘息患者であることを知っていたものの、右のとおり研鑽義務を怠ったがために、勘之助にたいしてロキソニンの投与が禁忌とされているアスピリン喘息であるか否かについては何ら問診しなかったのであるから、この点についても被告のロキソニン投与には過失があるといわなければならない。

さらに、被告は、ロキソニンを勘之助に投与するに際して、既に勘之助が前述のように喘息患者であることを知っていたのであり、他方、ロキソニンの使用説明書にはアスピリン喘息と気管支喘息が記載されているのであるから、勘之助がアスピリン喘息でないことを確定的に診断した後にロキソニンを投与すべきであって、右診断ができない以上はロキソニンを投与してはならない注意義務を負っていたものと解されるところ、これに反して漫然とロキソニンを投与したのであるから、この点についても過失が認められることになる。

4 以上のとおり、被告は、そもそもアスピリン喘息に関する知識の修得という研鑽義務を怠り、そのため、勘之助の喘息がアスピリン喘息であるか否かについて問診することを怠り、さらには、勘之助の喘息がアスピリン喘息ではないと確定的に診断できない以上ロキソニンを投与してはならないという投与における注意義務を怠って漫然とロキソニンを投与したのであるから、その余の注意義務違反の有無について判断するまでもなく、原告らに対し、後記損害の賠償義務を負っているといわなければならない。

四  原告らの損害

1  慰謝料

本件事故による勘之助の精神的苦痛を慰謝すべき額は、本件における諸般の事情を総合すると一八〇〇万円が相当と認められるので、原告ユキヨは九〇〇万円、他の原告らは各三〇〇万円を相続したことになる。

2  葬儀費及び墓碑建立費

弁論の全趣旨によれば、葬儀費及び墓碑建立費に要した費用として被告に負担させるべき金額は一二〇万円が相当と認められ、原告ユキヨはそのうちの六〇万円、他の原告らは各二〇万円を負担したものと認めるのが相当である。

五  結論

よって、原告らの本訴請求中、原告ユキヨについては九六〇万円、同前田武志、同松永美紀子、同前田弓子については各三二〇万円の支払を求める部分は理由があるからいずれも認容し、その余の部分は理由がないからいずれも棄却する。

(裁判長裁判官中山弘幸 裁判官向野剛 裁判官三村義幸)

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